共感・共闘・共生のダイナミズム 
         基調提案を読んで
         (『Kの世界』1995年冬、第7号所収)
                     近藤郁夫(愛知県立大学)

T.理論的仮説の提起
 あの大会を成功させた力が、ただその時だけの一時的な力の集中におわることなく、継続した力になっていくこと、そのことを私たちは大会を準備していく中でお互いに心に刻んできた。
 『京都の生活指導―Kの世界』の継続的な発行はその決意の現れであった。その内容のボリュームといい、濃さといい、バリエーションといい、京都の教師たちは伊達に苦労させられてきたのではないのだな、その苦闘の中で、これほど豊かな実践的・理論的な内包が蓄積されてきた(蓄積してきた)と、届けられる『Kの世界』を読むたびに僕は感じてきた。原稿用紙何枚になるか、圧倒的な迫力の滝実践。こうして滝実践を断片ではなくて通しで今われわれは批判的分析的に読むことができる。何のために?当然、滝実践を乗り越えるために。(注:ここでの「滝実践」とは『Kの世界』第2号から「連載」された滝三郎「仲間と手をつないで」を指していると思われる。―滝花)
 『Kの世界』の最も大きな成果の一つは、その基調提案とそれを作成するための努力にあることも疑いない。そこには京都の80年代の苦闘から抽出した理論的・実践的な仮説が提起されている。以下、基調提案がなぜ、どんな点で成果であるのか、課題は何か、メモ的に記してみたい。

U.自らの手で実践的世界を定義化
 人々を孤立させる圧倒的な力を前に、私たちは翻弄され続けてきた。翻弄され続けてきたということは、自らの言葉を見失わされてきたことを意味する。どうしたらいいかわからないということは、どう世界を定義づけたらよいか不明であることを意味している。こうした観点からみるならば、この基調提案の価値は、第一に自らの手で実践的世界を定義化する貴重な試みであるということである。
 京都の各地からこうした言語化・定義化の花がなお一層咲き始めることを期待する。それは京都だけにとどまるものではない。日本の教師たちが、あるいは日本のいろんな生活指導にかかわる研究会・サークルが自己のおかれた時・空間と子どもとの生活世界を自らの言葉で定義化するきっかけになれば―日本の生活指導実践と理論はさらに発展していくことになるだろう。

V.京都仮説の特徴
 基調提案の特徴のすべてにふれる力量は今の僕にはない。ここではこの基調提案における核心的な問題――「共感」「共闘」「共生」の指導とヘゲモニーに関する理論的提起を京都仮説としてとらえ、この点にのみ羅列的にコメントしてみる。

 @共感・共闘・共生――の関連構造について
 共感とはかなり心理学的なニュアンスの強い言葉である。心の機微にも分け入るようなデリケートな言葉といってもよい。

 共闘とは、文字通り共に闘うというどちらかと言えば、政治学的―あるいは哲学的なニュアンスを含んだ言葉。
 共生とは、哲学的な香りのする高度な人間的な世界を志向している言葉だろう。
とするならば、共感から共闘の域へはある飛躍的な契機が必要となる。基調提案における共感→共闘への飛躍の困難さの指摘は、この角度から言えばある飛躍的な契機を獲得する実践的な困難さであるかも知れない。
 (大会時の支部交流集会における)栗城常任は面白い指摘をしてくれた。(共感―受容・対話)、(共闘―納得・説得)、(共生―批判・援助)のレベルと。氏の言う『受容・対話』の世界から『説得・納得』の世界という指摘は、おそらくここでの飛躍的な契機の本質の一面を言い当てていると思われる。『受容・対話』と『説得・納得』との明白な相違はどこにあるか。『受容・対話』の世界における人間的な関係の成立に支えられつつ、『論理的な知』の世界に入りつつあるということをも意味しているということである。→滝実践における氏の説得と納得の世界を想起せよ。共闘の域から共生の域への飛躍の契機は何か。栗城提起における『説得・納得』から『批判・援助』ということだろうか。僕は『批判・援助』に『相互』を加えてみたい。『説得・納得』から『相互批判・相互援助』が、共闘から共生への飛躍の契機であると。

 A共感・共闘・共生とヘゲモニーについて
 さらに考えたいのは、「共感・共闘・共生」の世界を基調提案では「〜的指導」、「〜的ヘゲモニー」というように、指導とヘゲモニーのありようを示す概念の拡張を展開していることである。内実のない「制度的ヘゲモニー」は、子どもの中での「暴力的ヘゲモニー」「荒れのヘゲモニー」に対応できぬことは明らかである。
 こう見ると基調提案には、子どもの中での「暴力的ヘゲモニー」「荒れのヘゲモニー」に対して、教師のヘゲモニーを確立していく極めて実践的な提起が含まれていることがわかる。それは「共感・共闘・共生」の世界に「〜的ヘゲモニー」と極めて異質な言葉を加えて現状を切り開こうとする努力と言ってよい。そして各ヘゲモニーの確立の過程の重点課題として「受容・対話」「説得・納得」「相互批判・相互援助」を主導する教師の主体的な努力が鍵となることが示唆されている。

 B寄り合い→前期への発展とヘゲモニー論
 こうした努力は、これまでの学級集団づくりの仮説に対して何を提起していることになるのだろうか。従来、「寄り合い」→「前期」への発展のメルクマールとして、集団のヘゲモニーが教師→自覚的な子どもたちのヘゲモニー、として捉えられてきた。この見地から見ると、あるいはこの見地を照らし合わせると、京都仮説は何を新たに提起することになるのか。
 
「寄り合い」がすでに「寄り合い」として成立せず、「プレ寄り合い」ではないかなど、子どもの現状と集団の現実に対してさまざまな検討がされてきた。なによりも「暴力的ヘゲモニー」「荒れのヘゲモニー」が厳然として存在するという現状から私たちは実践を展開してきた。こうして見るならば、そこへの実践的な切り込みとしての仮説的な提起としての京都仮説は、「寄り合い」が成立するための指導原則、「前期」へと飛躍する指導原則への提起をも意味していると言えるかもしれない。個人指導と集団指導とを堅持して二つながらを切り離さずに展開していく意識的な努力は、こうした提起の内実を探っていくことと連動している。
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